●第8回 居酒屋 黒兵衛
知人に紹介されてこの店を訪れた。カウンターに小さなタペストリーが揺れていた。「おかえり! おつかれさん」カエルの母子が父親を待っている図だ。なんともほほえましい。はじめてなのに、すぐに空気になじめた。
「この幸せな値段を見てよ」知人はそう言って品書きを差し出した。おでんは全部1個80円、地鶏刺し350円、カキフライ350円…。串焼きにいたっては、1本70円からある。500円を超えるものはない。 安い…。毎晩飲まなければならない身には、まさしく幸せな値段だ。味もいい。おでんは醤油出汁。あっさりしていて、何個でも食べられる。女将と大将夫婦も愛想がよくていい。
その日、たらふく食べて、しこたま飲んで、1人1000円余りだったが、女将はこう言った。
「ごめんね、ちょっと高くついちゃった」
いい店だねというと、まあねと知人は含み笑いをした。やがて私はその意味を知ることになる。
味と値段が忘れられなくて、ふたたび足を運んだ。夜9時をまわったばかりだった。しかし、のれんは仕舞われ、入り口の引き戸には鍵が下りていた。
店の中は灯りがついていたが、後かたづけをしているのだろう。暇だったのかな。そう思いながらきびすを返したとき、かすかに笑い声が聞こえた。仲のいい夫婦だなと思った。
その数日後、ふたたび訪れると、またまた同じ状況だった。夜9時をまわったばかり。のれんは仕舞われ、入り口には鍵。そして明るい店内からは笑い声…。
紹介してくれた知人と話す機会があり、たずねてみた。
「忙しくなると、もう客はいらないって鍵をかけるんだ。わがままだろう」と笑った。
その翌日、懲りずに三度、店の前に立った。目の前の風景は同じだった。早仕舞したのならあきらめもつく。しかし、なんだかバスに乗り遅れたような、取り残されたような、そんな気分で店を仰ぎ、しばらくその場を離れることができなかった。
ようやく入れたのは何度目だったか、アホらしくて数える気にもなれなかった。
入れたら入れたで、またまた関門があった。忙しいのだ。
「とりあえず、おでんでも食べて」とすすめられ、じゃあ、と適当にもってもらう。その間にもあちこちの席から注文の声が飛ぶ。「ちょっと待ってね!」と女将、園田いずみさんははじけるような声で受け答えする。負けずに私も注文する。
「鶏かわ揚げと塩サバ焼き、と、タコわさ!」
「鶏かわはない!」
「じゃあ、塩サバとタコわさだけでいいっす」
横の常連客が言った。「鶏かわはないのじゃなくて、面倒くさいだよ」と。それを聞きつけて女将は大声で笑う。「やだぁ! だって忙しいもん」。客はさらに言う。「あのね、いま聞いた注文、絶対に忘れてるから」。ふたたび女将。「余計なこと言わんでよぉ」。しかし、楽しそうだ。
店内を見まわすと、客の方は慣れたもので、みんなおでんを適当につつき、お行儀よく飲んでいる。この店はいったい、だれのためにやってるのだろう。そんなことをぼうっと考えながらビールを飲んだ。
客もみんな楽しそうだが、いちばん楽しんでいそうなのは女将で、その次に楽しんでいそうなのは女将を見守るように笑う大将だと思った。この店は、この夫婦のためにある。だから客もみんな楽しいのだ、と。
写真(上)店が開いている。それだけで幸せな風景だった
写真(中)とりあえず食べていてというおでんは、ネタが豊富で安い
写真(下)さりげなく掛けられているが、店の空気をずいぶん温かくしている
●居酒屋 黒兵衛
住所:鹿児島市千日町
【地図】
TEL:099-222-7300
定休日:毎週日曜日・祝祭日
営業時間:PM5:30〜11:00